明治,大正、昭和の三聖代を通じて、渋谷利喜太郎翁の右に出る名人調理士はない  と言うのが世間の定評である。私もこの定評に対して、太鼓判を押して裏書する一人である。
調理士出身者で料理店の主人として成功した人は沢山あり、産をなし名を博した人も少なくない、この点では或は渋谷翁に欠ける処があるが、私は反って渋谷翁のために、常にそれをたたえて来た、といふのは、渋谷翁は四度料理店を開いて四度共経済上に失敗している。或は商才の点で欠けていたのだ  と見る人がある、私をして言わしむれば、それは渋谷翁が調理技術の達人として、余りにも芸術的良心が強く、自己の芸術的良心がいつも料理店主としての商略の上に反映して謂う所の「そろばん玉」に合わぬ結果となって、一再ならず失敗されたので、国宝的調理技術者としては、寧ろ名誉ある失敗だと信じている。
然らば調理士出身者で料理店主として成功している人々は、調理技術の上において、渋谷翁程の芸術的良心を欠いていたのか、と言えば。必ずしも、そうとばかりは断言出来ぬが、少なくとも、採算上多少でも芸術的良心を殺し得られたればこそ、その成功を得た方々であるとは言えると思う。
 事ほど左様に、渋谷翁は死の直前まで調理技術の研究と、後進の指導とに全力を尽くされ通して来た。その一例として、死の二日前に、門下生の某氏のために、勅題料理の献立をこしらえて、その料理の仕方に就いて口授されたと言う一言を以って見ても、如何に熱心であったかを雄弁に物語っている。
 渋谷翁には一克な、名人気質と言う癖が少なかった事も敬服される一つである。江戸前料理の華やかな頃、押しも押されもせぬ地位にあって、東都の名割烹、新喜楽の主任者として、斯界では飛ぶ鳥をも落とす勢力を持っていた関係上、陥りやすい自己陶酔に陥らず、明治の末期から大正の初期にかけて帝都に流行の徴を現わした関西料理の長所を早くも取り入れて、この方面の研究にも斯界の人々より一歩先んじていた事なども見逃せぬ点で、世間つい通りの名人気質一張ばりの癖の少なかった方だと言う、よき事例だと思っている。そればかりではない、老いたる技術者としてあり勝ちな、化学を非定すると言うような事も少しもなく、若い者にも負けてはいずに常に熱心に調理化学の研究をも怠らなかった事にも、決して名人として己惚れてのみいられなかった事を知っている私は、心から頭が下がる。
 渋谷翁は調理士には稀に見る徳の高い方であった。さればその徳を慕う門人も沢山あった、その一例として日本料理研究会創立当時の事を思い起こすと、昭和5年の初夏、たまたま日本料理研究会の創設に就いて、私の力を借せと申し込まれてきた時、私は言下に「渋谷翁が立つなら微力を尽す事を惜しまぬが、渋谷翁が中心とならねば見込みがない」と答えた。その結果渋谷翁と私が会見して、共に斯界のために尽そうと誓って、茲に初めて日本料理研究会がスタートを切り、以来何人が企ても成功した例を見なかったこの種の計画が十数年の永き今日まで全国各地に数千名の会員を得て発展の一途を邁進している事は、全く渋谷翁の徳に負う処が多く、渋谷翁の力量に千斤の重みがあり、これを中心に各師範、役員の一糸乱れぬ結束も、正に渋谷翁の徳が高かったからだ、と言うに憚らぬと思う。。。。。

この序文は、全国同盟料理新聞社長、日本料理研究会副会長の、三宅孤軒が記したものであり、渋谷翁のことが、全く知らなかった私にも何となく、すごい人だな と言うことが判ります。


 この料理書を読む者、其人によりて、各異なりて大いに得る所有るべし。
 料理業者は、実地に行ひて眼前の利益を得べく、料理人達は、必ず創作の便を得べく、家庭料理を習ふ者は、其時に応じて数々の手本を得られるべし。
 是著者の手練の「普通の料理に一趣向を点じ」「古色料理に新味を加へ」「旧形を知りながら、わざと新奇を現はし」よじゅ時勢風にさきがけんと為す所によりてなり。

四條流9代目石井泰次郎家元の序文です。斯界を代表する錚々たる人の序文の上に,鏑木清方が12ヶ月挿絵を書いているのです。




第二次世界大戦の直前の関係でしょうか,今のものに比べれば紙の質もよくないのですが、三円と言う代金は本として高価だと思います。
如何に渋谷翁がすごかったが、想像されます。
これから、ぼつぼつと、その献立を載せたいと思います.

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