武士(もののふ)の覚悟もかかる時にこそ心の知らぬ名のみをしけれ

これは、梶原景時の辞世の句です。梶原公園に鎌倉建長寺の管長さんの筆による碑が建てられています。

”正治二年正月、梶原平三景時、当国一宮に城をかまえしが、将軍頼家卿に憎まれ奉りて、子息家の子を相具し上洛す。駿河の清見関にて、其近所の甲乙人、的を射るとて集まりしが、途中にて行きあい、色代もなく騎打しければ、人々怪み箭を射けるに、梶原此狐にてかえしあわせて、遂に軍に成りにける。芦原小次郎、飯田五郎、吉香小次郎などいふ所の武士、先に進みて戦ひけるほどに、梶原景茂等みな討たれぬ。是より国中の兵どの大勢あつまりて責めければ、景国、景宗、景則、景連も討死しけり。景時、景季、景高叶はじと思ひ、後の山に駆け入りて、腹十文字に掻き切って亡びにけり。頓て其首をとりて、大路にさらしつつ、後には馬の蹄にかけて、草村に朽ち果てたり。梶原は椙山のふし木のなかにして、兵衛佐殿を助け奉りし陰徳によって、頼朝卿天下をとり給ひしかば、景時即時を得て、威を海内に輝せり。殊更弁舌才智ある人なるにより、侍大将となって、平家追討の為に西海に赴き、源廷尉と逆櫓の争論に面目を失ひ、義経を謗しける其酬なりと、人々申しあへり。其頃廷尉あるひは範頼、源家譜代の良臣多く滅亡しけるは、みな北条時政、子息義時が姦計によるとぞしられける。”

以上が東鑑の大意とのことですが、東関紀行では、以下のようです。

”なほうち過ぐる程に、ある木陰に石を高く積み上げて、目にたつさまなる塚あり。人に尋ぬれば、梶原が墓となん答ふ。道のかたはらの土と成りにけりと見ゆるにも、顕基中納言の口ずさみ給へりけん。「年々に春の草のおひたり」といへる詩思ひ出てられて、是もまた古き塚となりなば、名だにも残らじと哀なり。羊太傳が跡にはあらねども、心ある旅人は、ここにも泪をや落すらん。かの梶原は、将軍二代の恩にほこり、武勇三略の名を得たり。側に人なくぞ見えける。いかなる事にかありけん、かたへのいきどほり深くして、忽に身をほろぼすべきに成りにければ、ひとまとも延びんとやおもひけん、都の方へ馳せ上りけるほどに、駿河国吉川と云ふ所にて討たれにけりと聞えしが、さはここにて有りけるよと、哀に思ひ合せらる。。。。。”

吉香(吉川)小次郎は、この事で幕府から恩賞をたまわり、岩国でしたかに移るわけです。毛利の吉川の発祥は清水の吉川にあるのです。

梶原堂の裏手の山、梶原山の公園を降り、静岡の瀬名に下り、北街道を、左手に梶原山をみて、先にのべたように大内の観音さんに立ち寄って、家に戻った訳です。のんびり3時間の遊びでした。

次回は別な話題を。


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