私ども玉川楼の玄関の向かいは、全国的に有名な巴川製紙所です。その正門の門柱は大きな石で出来ておりますが、駿府城修復の際、城石として使われようとしたものと言われています。



現在、巴川製紙所さんは塀を改装中ですが、それでもこの石の大きさがよく判ります。
江戸時代、清水の興津、特に両河内は駿河半紙の産地として有名でした。これは明和年間(1764〜71)甲州市川の人が伝えたとのことで、家内工業による紙すき業者は、両河内だけで300戸を数えたそうですが、明治27年に出来た巴川製紙所さんの前身の紙すき工場は、本格的な工場でした。
この工場を建設する際ほりだされたものが、この大石だったのです。
 巴川は、勾配が興津川の30分の1、安倍川の20分の1と言う緩やかな流れの川です。安倍川や長尾川などから流れた土砂が堆積してできたなかの川でした。
江戸時代には、この川は、蛇行していましたしもっと川幅も広かったようです。そのため駿府への物資をはこぶ重要な交通機関でもありました。
徳川家康が慶長12年でしたか駿府城の大改修に着手したとき、各地から石垣用の石が巴川によって運ばれたのだそうです。
 ところで、ここからそんなに遠くない市役所の辺りは、今島崎と言っていますが、以前は波木崎と言って、白波が立っていたところだそうです。
私ども玉川楼や巴川製紙所さんから西手100メートルも行かない、新富町に若宮八幡神社と言う鶴岡八幡から勧進した神社があります。もとの位置は鉄道が通るにあたって一旦移動したようで、少しばかり場所は違っているかもしれませんが、







この若宮八幡に、ペンキ?で白く塗った木に、”明治天皇御東行際の御一行御避難所跡”と書かれているのがあります。舟で脱出する事の出来やすいところだったのでしょうか。海又は川に近いところであったことは、これからも判ります。
そんな位置関係のこの辺りですが、駿府城修復のためと思われる石を運んだ舟又は筏が、浅瀬に乗り上げたのか、何らかの事情で石を落としてしまったことが多々ありました。
この辺に、潮の干満で見え隠れする三つの石があって、そこでこの辺りを”字名”で”三石”と言っていましたが、いつしか川筋が変わったのか石も見えなくなり、忘れ去られ、ただ言い伝えのみ残っていました。
それが、紙すき工場を建設するに際して見つかり、そこで巴川製紙所さんはその偉容をいつまでも残そうと正門の門柱として置いているわけです。この石がどこから来たのか、伊豆石だとか言われていますが、正確なところは知りません。
現在(2000年6月)巴川製紙所さんは塀を作り直し、景観整備をしており、もうすぐ完成しますので、散歩するには最適な場所になりそうです。
 
尚、三石のほかに八石もあります。三石より二周りほど小さいようですが、そのひとつは入江町の慈雲寺にあります。散歩がてらににご覧になることをお勧めいたします。

蛇足の蛇足

今年はどういう訳か、目の前の巴川で”鱸”がルワーで釣れ、4月から5月にかけての一ヶ月で、我が家の釣りキチは、なんと!50枚ほどゲットしています。リリースしてまた釣るわけですから同じものを釣ってるのかも知れませんが、92センチのを見たときは、びっくりいたしました。
今年の鮎の遡上の多さのためなのかも知れません。巴川もだんだんきれいになってきたからでしょうが、もっときれいになって釣ったものが食べられるようになったらいいのに と我が家の釣りキチに言ったところ、釣りの王道に外れる とまでは言われませんでしたが。。。白い目?で見られました。
釣りキチは結構楽しんでいました。


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