例年に比べると、とても暖かく花の便りも聞こえるどころか、一面花の色の時となりました。
個人的なことを書いて恐縮ですが、以前から欲しい欲しいと思っていた 電動自転車 を 家族の”すぐ飽きるからよしな!”と言う反対を押し切って、普通の自転車とそんなに値段が変わらないからとか、毎週出掛けるクラブの会議が駐車場がないからとか、健康のためとか言って 、本当のところ自分でもよく判らない、只欲しいとの思いの方が強く、購入しました。
やっぱり年の私にはいいですねー。息を切らさず、楽に運転ができますね。
そこで、二時間ほど手隙なのを幸いに、サイクリングがてらに清水を探訪と洒落ました。
私ども玉川楼は、巴川の柳橋際にありますが、その下手の橋、大正橋をまっすぐ東に興津川あたりまでサイクリングすることにしました。
大正橋は、大正初年に架けられたのでそう呼ばれており、橋際に水神さんがあります。これは旧七間町の村社で、ここから50メートルほど進むと銀座通りを横切ることになります。銀座通りはここからさかのぼり2つ目の信号稚児橋までが、旧東海道の江尻の宿の中心でした。本陣の寺尾さんのとこは跡として残っておりますが、脇本陣では、大久し屋さんが今でも営業されております。(以前書いてある通りです。)
銀座通りを横切って、50メートルほど行きますと、浄土宗のお寺 市中山江浄寺が左手にあります。
阿弥陀如来がご本尊で、永正元年(1504)観譽祐崇上人が開山。上人は鎌倉の光明寺の住職で、その学徳は名高く、後土御門帝も帰依されてたそうで、上人が京へのぼる途中、この土地に宿し、土地の信徒とはかって、字勝沢に一寺を建立し、勝沢山江浄寺とし、その後今の所に移し、山号を市中山と改めました。”伝云当時寺域市中ニアラザリシモ、其の市中山ト称スルハ、後年ヲ達観シタルノ称号タリシト、果シテ今ヤ市街連接、当年山号命名ニ背カズ・・・”
このお寺には、家康の子、岡崎三郎信康の墓があることで有名です。”当寺ニ岡崎三郎信康ノ首級ヲ葬ル、信康ノ二俣ニ死スルヤ、其臣平山某当寺ノ住職ト縁故アリシヲ以テ、密カニ其首級ヲ持シテ当寺ニ葬ルトイフ、今尚其ノ墓を存ス。”ここには、九州松浦藩にまつわる悲恋物語があって、昨年地元の劇団清見潟が江浄寺物語りとして上演されました。
江浄寺の前の通りは、以前伝馬町と言ってましたが、そこから東に500メートル?(測ったことないのでお許しを)ほど行きますと、清水駅前から静岡への国道一号線の広い道に来ます。角に萬栄堂さんと言う本屋さんがあります。
この道を横切り進みます。すぐ左手に”熊吉丸”と言う店があります。自分でとった?シラスを茹でて販売しておりますが、その時は行列が出来ます。
人口の多い東京のようなところで行列が出来るのは、そうたいして珍しいことではありませんが、ここはよく見かけますのできっとおいしいに違いないのでしょう。(並ぶのが面倒で買ったことがないのです)
その隣が 映光カメラ。私が大変お世話になっているカメラ屋さんで、親切で、しかも安いのでいつも我侭を言わせて頂いております。
この通りは本郷と言って、もともとの宿はここにあったようです。たびかさなる災難などで私ども玉川楼の近くに移ったとのことです。この辺りは今でも古いお宅が多くあり、名家ばかりのようです。
以前父からこの土地のお宅へのお嫁入りの時のことをきいたことがあります。そのお宅へお嫁入りの際、嫁入り先から”風呂敷ひとつできてください”と仰られて嫁方は、(そのお宅はそこから何キロはなれているのでしょうか、車で15分位はかかるところ嫁方のお宅では)村中の人にお願いして風呂敷包みひとつづつもってお嫁入りしたそうです。一つづつ持たれたその行列は壮観なものだったそうです。お嫁入り先にはじめの”風呂敷包みの人”が着いたとき、まだおしまいの”風呂敷包みの人”は嫁方のお宅を出てなかったと言う”とてつもない行列だったそうです。この通りには、こんなお話が残っているわけです。
(蛇足ですが、京都に丸太町通りがありますが、これは妙心寺の法堂の柱用の丸太を通したために名づけられたものですが、現在では何千萬、いや1兆円ぐらいだしても入手出来ないだろう丸太を、富士山から切り出して寄付したのも清水の人です。前にかきましたっけか?)
映光さんから100メートルも行かないところに、小さな看板があります。江尻の宿の東側の”木戸跡”の看板です。本当に目立たない小さな看板がいいですねー。
この辺りに日蓮宗の蓮行院妙蓮寺があります。
寺記にこう記されているそうです。”当寺ハ往古真言宗ノ古刹タリ、其ノ開創年代不詳、伝へ云寺院号を泰国ト呼ビタリト、当時ノ本尊タリシ不動明王ハ、役小角ノ作トイフ、今尚寺中ニ崇祀スル所。おうえい34年、住職ヲ正行阿闍梨トイフ、偶々日親上人ト法義ヲ論シテ、大ニ法華ニ帰向シ、遂に改宗シテ法華宗トナリ、寺号ヲ改メテ妙蓮寺トイフ、・・・”
この辺りは元宿ともいい、古くは其の先の最初の東海道である、現在の北街道と十字をつくる辻村がそうでした。昔辻村が その辻が 現在のどの辺を指していたのか、浅学の私には見当がつきません。
駿国雑志に”里人云。江尻駅の本所は辻村の本郷なるべし。その謂は往古より北海道を以て往還とす、横砂村高橋村瀬名川村等の道筋是也。此地北海道と庵原郡家の湊道と十字街をなす故に辻村と云也。当村は旧多念山称名寺(浄土)の下にあり、明和某の年疫病の為に、里民多く死亡して邑里荒廃す、今の里は慶長12年の易地にして、東海道に連れり。云云。又云。当駅往昔は入江の宿と云へり、江尻は、入江尻の略言也。云云。・・・”
現在は、海までかなりの距離がありますが、それは地震などの為隆起したもので、昔は、海はもっと近く江尻といい浦と言って駅とは云ってませんでした。
この通りを行けば判りますが、海岸側 現在の国道沿いがかなりさがっています。この辺は海岸縁だったのでしょうか。平成の私たちには想像するだけです。
木戸跡から300メートル位でしょうか、進みますと信号のある交差点が、多分家康が東海道を整備してからの辻だろうと思います。ここから先
360メートルほどは松並木が、戦前まで残っていました。”細井の松”と言いました。
多分、北海道を東海道としたころは、火祭で有名な秋葉山の近くに辻があったのだろうと思いますが、今交差点から西と言おうか、北街道を望みますと秋葉山を見ることが出来ます。
細井の松の碑は、現在の東海道と旧東海道の今進んできた道の合流点にあります。
慶長六年(1601)家康が東海道を整備し江尻の宿場が設置されたこと。9年(1604)秀忠が主要街道を大改修し、江戸防衛と旅人の安全のため、樽屋と奈良屋を工事奉行にして、この地199間(360メートル)に260本の松が植えられたとのこと。当時の辻村は戸数110で、松並木では”松原せんべい”が売られていたとのこと。
第二次世界大戦中松根油を採るため伐採されて今は、その記念に植えられた小さな松があるのみです。


(ところで、字勝沢は、江浄寺の和尚様にお尋ねしたところ、現在の県立清水東高の辺りとのこと、昔の辻にあったわけです。江尻の宿が、巴川沿いに移ったので、現在地にうつったのでしょうか。勝沢山は”しょうたくさん”と読むそうです。)


続く・・・。


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