細井の松の碑があるところで、旧東海道と今の東海道が合流している訳ですが、清水を襲った七夕豪雨の頃で廃止されてしまいましたが、今の東海道の道筋(JR清水駅前からさつき通りを直進してその終わる地点まで)を路面電車が走っていました。私たちはこの電車を”チンチン電車”と言って親しんできました。細井の松の地点から現JR東海道線に平行するように国道を離れて、以前海水浴場があって夏場のみ止まる東海道線袖師駅近くの横砂まで走っていました。
この路面電車の石畳の石は、つい最近まで”次郎長の墓”のある梅蔭寺の参道に敷き詰められておりましたが、梅蔭寺新築のため撤去されました。現在入江町慈雲寺が譲り受けて本堂前に敷かれています。
細井の松の碑からしばらく進みますと愛染川があります。川幅10メートルあるかなしかの、小さなごくごくありふれた川ですが、古くから知られた川でした。
駿国雑志では"逢染川”の項目があります。”庵原郡江尻駅に有り。水源は神戸山より出、本郷に至て海に入る也。風土記烏渡郡界條云。東限藍染川、広野姫天皇四年庚寅、春以前、以浄見関為限、後以藍染川為限。云云。(原文はレ点が付いていますが、私のパソコン技術ではうまくレ点を打ち込むことが出来ませんので省略。お許しを。だれか教えてくださいませんでしょうか)即此川也。駿河国志云。逢染川は、江尻の東、鈴木島(私たちはスキジマとよみます。)の辺りの海道に、いささかの橋を渡せる小川を云也。(鈴木島の近くにシジミ川と言う川がありますが、それではないと思います。)古は有渡、庵原両郡、此川を境とす。
   人心、かねてしりせは、中々に、逢そめ川は、わたらさらまし
(私の解釈:ひとの心をあらかじめ知っていたならば、かえって逢いそめ川はわたらないほうがよかったのに。”相手の心変わりを恨んで”いっそのこと逢わないほうがよかった)”
今では、この川がこのような歌を詠まれるようなところとは実に考えにくいところですが、静岡県庵原郡誌には”逢染川ハ庵原川ノ派流タリ、今江川トイフ、往昔和歌ノ名所トシテ其名アリ、袖師村嶺ノ地内ヲ南西流シ海ニ入ル。”

個人的なことで恐縮ですが、私の生まれ育ったところは、この川の川下東海道線のすぐ下手でしたが、子供の頃はまだ水が豊富で、自宅の近くで清水港の運河に注ぎました。そこでは段差があって滝のように水が流れていましたから、その場所を”ざーざー”といったのを覚えています。
昔はどこでもそうでしょうが、愛染川の辺り、周りの田んぼには、メダカやどじょうがいたり、よくザリガニ取りに夢中になったものでした。腹のところの青い筋(腸?)をとれば結構食べられるようでした。夏になると蛍がとんでたのも覚えています。この辺の蛍はほとんど”平家蛍”の小さい蛍で、大きな”源氏蛍”はあまりいませんでした。
ものの本によりますと、この愛染川の横辺りに、旧東海道である北街道の道があったようですが、現在その面影は全くありません。
その先の信号のところを左に曲がりますと袖師小学校があります。私は愛染川沿いに国道まで来てこの信号のところを(当時、信号はなかったと思います。)まがって学校に通ったのでした。小学校に大きなユーカリの木が2本あったのを覚えています。小学生1〜2年生の時でしたでしょうか、12月のお昼頃だったと思います、校庭で遊んでいた時東南海地震に遭いました。立っていることができなく転げたこと。そして無我夢中で自宅に戻る途中、国道沿いの二階建ての家が一階部分が崩れ、平屋の家になっているのを覚えています。怖かったとはかんじなかったようですが。
この信号のすぐ先に、今袖師の公民館になっているのが役場でした。
ここからしばらく行きますと、庵原川に至りますが、この辺りまでは以前、子供の頃でも家が建て込んでおり、国道から田んぼなど畑は見えませんでした。只、庵原川の手前の、”榊屋”さんの近くは松と田んぼが見えて、その先に電車の”鈴木島”の駅が見えたと、今うろ覚えながらも覚えています。

自動車では何回も通っているのに、自転車ですとこんな思いに耽る?ことができます。たまにはいいものですね。
 庵原川を渡って、最初の信号のところを右に曲がりますと、夏だけ止まる”東海道線袖師駅”があり、電車の終点”横砂駅”があって、遠浅のこの海岸には多くの桟敷が出て、海水浴客でいっぱいでした。
この袖師の海岸近くに、吉川英治の”新平家物語”にも描かれている”一葉の松”の碑がありました。
松は二葉ですが、その松葉の中に、一葉だけの松葉が混ざった松の木があったそうです。

信号のところから左手先の山に小さなお城のような建物があるのが見えますが、興津川の水を浄化してこの山まであげてその落差を利用している水道局の建物とか。
この道を更に進みますと、国道は上り坂になって、東海道線の上を通ります。上り坂のところに右手に道なりの道がありますので、本当はその道が東海道だった? 本当かどうか、確認も尋ねもしませんでしたので本当かどうかは判りませんが、そんな思いがしました。
東海道線の上を通るすぐ手前を左に曲がると、今隠れた桜の名所で知られる”広瀬”への旧道が波多打川にそってあります。ここには、明治の元勲”井上馨公爵”の別邸もありました。井上公爵は、東京の銀座の、また歌舞伎の大恩人で知られていますが、ここでは興津駅に急行を止めるようにしてくれたことでも知られています。
私ども玉川楼の庭石は”井上さん”のところのものですが、榊屋さんの玄関先に植えられている松の小さい方も”井上さん”のところにあったものです。
波多打川は、古くは”角田(すみだ)川”と言って、歌の名所でした。

駿国雑志には”角田川”の項目があります。少し長いのですが載せます。
・・・・・
庵原郡深澤村の西に有り。哥枕名寄云。角田川、範兼卿類聚、角田川原入于駿河國。但大和國信土山邊、有角田川原、今幸詠合之、不可不審歟、可為紀伊國分。云云。蜷謦B、向駿河國入之、同名之処歟。源家長哥云。庵原之磯枕。万葉集。庵原之清見か崎之三穂之浦。云云。彼浦邊に有此川、不詳。云云。駿州名勝志云。庵崎の角田川、大和に在とし、或は下総とする誤れり。和州信土山、角田川ありて、庵崎なし。本州角田川、庵崎有りて、真土山詳ならず。(中略)角田川は、清見寺の前、寺下といふ所の西、今は、はと打川と云、是也。角田川を、はと打川と称する事、村老の説に、足利尊氏、薩埵山合戦の時、此川邊に旗を打しより、旗打川と云しを、訛てはと打川と称する。或云。此川上に、はた打山有りと、されば辧基が哥の、亦打山を、文字の読のままに、また打山と称し、後によこなまりて、はと打山となり、其山より出る川を、はと打川と云へるにや。云云。駿河國志云。今庵原土俗の云、角田川は、はと打川を云となり。長嘯子の道の記吟行をみれば、興津川のやうなれ共、此邊りに三の川有り。興津川、鳩打川、庵原川也。いはらは郡の府にて、古庵原川と云也。羽戸打川は、清見か関の西の方にあり、京極黄門の、都鳥ここにもありと読せ給ふ、是此所の角田川也とぞ。村老云。清見寺の前、寺下と云ふ町屋を、少し京の方へ行て有る小川也。鈴木島の東、深澤の西成べし。末は其儘海に入る。云云。

     万葉                                         
  亦打山、暮越行而、廬前乃、角太河原爾、獨可毛将宿。(まつちやま、ゆふこえゆきて、いほさきの、すみたかはらに、ひとりまもねむ)                                        辧基

  角田川、せきりにむせふ、水の淡の、哀なにしに、思そめけん          藤原成方

    建保名所百首
  今宵また、たかやとからん、廬崎の、角田河原の、秋の月かけ。        順徳院
    同
  月影の、さすや廬崎、すみた河、越てまつちの、山のかひより。        家隆

    井蛙
  都鳥、ここにもあれや、廬崎の、角田川原の、名こそかはらね。        定家
  水莖の、跡かきなかす、すみた河、ことツタ傅やらむ、人もとひこす。     定家

    夫木
  廬原や、角田河原の、いは枕、たひたひみれと、あかぬ浦かな。       源家長

    家集
  角田川、かは風立て、ゆく千鳥、聲も清見か、磯つたふらし。         源氏真

挙白集云。目に立つさまなる川ありけるを、とひ侍りければ、是なん角田川と云。さては業平の都鳥に事とひし所にやと、云ければ、翁それにはあらず。ここは駿河國、いほはらのすみだ川とよみしと、かたりければ。
  都鳥、いさやここにも、角田川、こととひかはせ、なみのまにまに。      長嘯
・・・・・

万葉集の僧辧基の歌には、地域的に大和の隅田を指していると専門書では言っています。それは、辧基が真土山のことを別のところで詠っていることから、また辧基が駿河に旅をした記録がないことを思うと、なるほどなとも思いますが、大和に庵崎と言う地名があるかどうか。私は知りません。しかし、真土山が旧東海道沿いの秋葉山の古名(さる本に・・・辻村ノ真辻山ヲ越テ往クモノ往古ノ海道也、・・・)だったと云われています。とすれば、万葉集においてこの歌が清見関の歌に続いていることをも考えれば、この歌も案外この地を詠ったものかも知れません。もしかして、確かに基辧は大和の土地のことを詠ったのかもしれませんが、編纂者は駿河のこの地を念頭にしたのではないでしょうか。そうしてみると、真土山から歩いて清見関はそう遠くもないのに、日が暮れて清見関のすぐ手前で独り過ごさなければならない辛さ(これが大和の真土だったらよかったのに)  こんな解釈がなりたたないかなー。これも勝手な解釈でして やっぱりひとりよがりでしょうねー。
しかし、少なくても後の時代には、角田河原は駿河として詠ってますよねー。
田舎の人って都を想って地名を似たようにつけますからねー。やっぱり向こうの方に分があるのかなー。

いずれにしろ、角田川は歌の名所でした。ここから清見寺までは、今ではもうすぐです。







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