“鮪 すし”

清水港は貿易港で有名です。興津にある埠頭には、いつもコンテナ船がついて、荷物の積み下ろしが見られます。又、清水は漁港として、特に鮪の水揚げ港としては日本一でないかと思います。毎日のように水揚げの光景が見られます。私が子供の頃には、鮪船が魚市場の前に着いて、鮪が並べられている光景が見られたのですが、最近は商社の方が一船買いをされて、港にずらっと並んでいる超低温冷凍庫に収められてゆきます。最近鮪の相場が難しいようですが、鮪船や運搬船が相場の高くなりそうな頃をねらって入港しますので、そうゆう時は、港もなかなか活気に満ちていますので、水揚げされる鮪を見るのも面白いものです。清水にある東洋冷蔵さん、八洲水産さん等の鮪の扱いで、全国の鮪の殆どを占めています。

こうした清水ですので、清水では鰹の時季をのぞいて、刺し身と言えば鮪はつきものです。最近はそうでもありませんが、以前は鮪が無いと刺し身でないと思われていました。

鮪には、ピンからキリまであり、すし屋に行ってトロを頼んでも、店によって値段が違い、時には吃驚するほど高く、思わず懐が心配になるのはそのためでしょうか。私はすし屋に行って立ち食いするのになかなか勇気がいります。初めての店ですとなおさらですので、最近は、そこのご主人に“おたくの特上すしはおいくらでしょうか”と尋ね、その特上すしを注文することにしています。仮にその中のものを一つ二つ追加したにしても特上すしの倍の値段はしないと思うからです。懐を考え考えてすしをたべるのなら、回転すしのようなすしを食べた方が、ずっと幸せを感じる私です。

ところで、現在私たちが食べている江戸前すしも、実はインスタントすしでした。古くからすしはありましたが、今の様な握りすしは、江戸時代文化文政のころできたもので、それまでは押しずしでした。文化の頃で深川の松のすしができて、名を轟かせていますが、押しずしでした。

文政年間のはじめに、江戸本所元町の与兵衛と言うひとが、それまでの早すし、(酢を混ぜた飯の上に魚をのせたものを、小型の桶にいれて一晩ほど圧してつくったものでした。清水と静岡の間に国吉田と言うところがありますが、そこの桶ずしは梅酢を使っていましたので長持ちし、有名でしたが昭和の初めになくなってしまいました。)その早すしを改良して、山葵をはさみ(それまでは梅酢につけた生姜です)、海老やこはだを主とする握りすしをはじめました。江戸すしの始まりです。渡辺実先生は、その著書で、

“与兵衛は寛政のころ江戸の霊岸島の八百屋に生まれた。九歳のころから浅草の茅町の札差業の雇人となって十余年間つとめ、その後道具商となり、かたわら茶道を修めたが、負債を生じ、一物もないようになった。やむなく菓子商となって芝の増上寺などへ売りに行ったが、これも損失となった。そこで本所横綱町の裏家をかりて、早すしを改良して売りあるき、後に本所の元町に転住し、毎日屋台店を出していた。当時松井町に妓楼があって、両国辺は毎夜おそくまで賑わしく、にぎりずしの売行は予想以上によく、ついで隣家の一戸をもとめて店を張るようになり、彼のすしが多くの人々に賞味された。山葵を使用することは文化のころから行われていたようである。山葵は解毒のためであって、風味を一層ひきたたせたものである。当時芝海老はあまり使われないで、至って安価であったので彼はそれに着目して、これを利用したことは、その売行を一層多くする原因の一つであった。さらにかって茶道を修めた体験から屋台でも風味のよい茶を特に選んですすめたことは、江戸の趣味に合致して人気をよぶこととなった。”

と言っています。ある意味では、当時のインスタント寿司であったわけです。この寿司が実に美味しいものだと言う事で、日本中に広まってゆくわけです。

“江戸自慢”に江戸のすしは握りて押したるは一切なし、調味よし、上方の及ぶ所にあらず、価も賎し“と出ているそうです。

すしは持ち帰りでしたので、例えば重箱にきっちり詰めましたので、ぎゅうぎゅう詰めのことをすし詰めと言うことになったのです。現在私たちがみている皿盛りは、むかし待会が重箱のまますしをだしても儲かりませんので、例えば、三人前の重箱のすしを五つの皿に取り分けてだし、所謂鞘をとると言うことをしたわけです。今ではこれが普通になり、これを筏盛りというのです。まだまだありますが、すしのことはこれくらいにしておきます。

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