朝顔日記の話は、浄瑠璃”傾城筑紫琴”、歌舞伎”生写朝顔日記”として脚色されているとのことです。
平成10年10月25日に 法岸寺本道で上演された素浄瑠璃”生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)”での説明によりますと、そのなりたちは、司馬芝叟(しばしそう)の長編「蕣(あさがお)」を原典として、山田案山子によって浄瑠璃として脚色され、天保3年(1832年)に大阪竹本木々太夫座で初演されたそうで、浄瑠璃の作品としては後期のもので、15段続きの長編時代物狂言だそうです。(だそうです と言うのは なにせ私この物語り 今勉強し始めたばかりですので、この点質問されてもこたえられません!)
 大内家のお家騒動を背景に、宮城阿曽次郎(後の駒沢次郎左衛門)と深雪(後に朝顔)の悲恋物語が主題となっています。この作品のテーマになっているのが 「露の干ぬ間の朝顔を照らす日陰のつれなさに哀れ一むらの雨のはらはらと降れかし」の唄だそうですが、これは、熊沢蕃山の作といわれ、主人公の駒沢次郎左衛門は蕃山自身をモデルにし、この唄をもとに物語の構想ができたといわれているそうです。
さて、その物語とは
”日向の國(宮崎県)の城主 秋月弓之助の娘 深雪は、あるとき宇治の蛍狩りで宮城阿曽次郎と出会い双方恋心を覚え、深雪はその時阿曽次郎に朝顔の描かれた扇子を贈った。
楽しい逢瀬も束の間、秋月藩にお家騒動が起こり、深雪は国許に帰ることになり、明石の浦で悲しい別れをした。その後 深雪は駒沢次郎左衛門という侍との縁談が起こったが、(駒沢は旧姓宮城、阿曽次郎であったが) 深雪も仲介人も駒沢が旧姓宮城であることを知らなかった。深雪は両親の勧めも聞き入れないで、阿曽次郎との約束を忘れかね家を出奔した。そして放浪の旅を続けるうち失明した。
 深雪は  「露の干ぬ間の朝顔を照らす日陰のつれなさに哀れ一むらの雨のはらはらと降れかし」 と習い覚えた琴をひき謡いながら「朝顔」と名もかえ、東海道の旅を続け、島田の宿まで流れてきた。ある宿の客に所望され、琴を弾いた。その客が慕う旧姓宮城であったが、目が見えないのでわからなかった。駒沢は深雪であることをさとり、この悲運を招いたのは自分であると考え、心のうちでわび、深雪からもらった扇子と目薬を宿の者に深雪に渡してもらうように頼み京に出発する。深雪は宿の者に扇子の絵と話を聞き、駒沢の後を追い、大井川の渡しに来たが、川止めで渡ることも出来ないで泣き崩れた。その後、忠義な家来に助けられ、目も良くなり、めでたく駒沢と夫婦となることができた。”
というものです。
ところで、法岸寺にお墓のある深雪について、受け売りでのべさせていただくと
”深雪は日向の国、延岡城主高橋元種を父に坂崎出羽守の妹を母としてうまれたが、ある事件で元種は領地没収となり、徳川の家臣安藤・本多等の奔走により、遠州の本郷(現 浜松市芳川町)に移住した。元種は娘深雪を高鍋藩の兄秋月長門守の養女として残したが、その後二代藩主種春の時お家騒動が起る。あわせて養父母も亡くした深雪は、高鍋藩を出て父母のいる浜松に向った。途中、身分を秘し、大阪では琴をひいて門付けとなり、元和2年10月遠州本郷にたどりついた。その時、年齢は15歳とも18歳ともいわれる。このことが「朝顔日記」として脚色されたのである。深雪はしばらく本郷の地で生活していたが、徳川の家臣本多忠勝等の尽力で、駿河の国の船手奉行山下弥蔵周勝(旗本1700石)の室となる。その後、官営8年(1641年)4月18日に清水で没した。高橋家の系図によれば、本名を「久」とある。
法岸寺にある過去帳では秋月長門守の娘とあり、法名を 正廣院殿永安種慶大姉 
平成4年が350年遠忌にあたったとのこと。船奉行の役宅は、法岸寺からそう遠くない、上野原 現在の浜田にあったとのこと。”
ということです。

古典に縁のものが、私どものすぐ近くにあるのは、とても潤いを感じいいものです。
そういえば、泉鏡花が巴川をモデルに小説を書かれたってお聞きしたことがありますが・・・?

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