年の後半になりますと、流石の私もなにやかや野暮用があったり、普通の風邪ですが生来不規則な私故、なかなか完治しない風邪に付き合って”清水こぼれ話”も、更新できずに、もうクリスマスになってしまいました。
 清水港に11月16日メガフロートを活用した”清水港海釣づり公園”が開園されました。ご存知のように清水港は釣りの名所ですが、普通は岸壁でしか釣ることができませんでしたが、これで湾の中,恰も船で行くのと同じ条件で、気軽に楽しめることが出来ます。


(広報 ”静岡気分”12/15号より)


釣りをしなくても、清水港。富士山の眺望は格別で、釣りばかりでなく、広場で色々な遊びができる”いわゆる”優れものです。
あと、魚が常に群がれる、集魚設備の完成が待たれます。


12月16日の静岡新聞に、”子規の句碑 日本平に建立 愚庵の没後100年を記念”と言う記事がありました。


愚庵と子規を偲ぶ会が、愚庵没後100年を記念し清水殿沢の”駿富日本平の里”に愚庵友人正岡子規の句碑を建立披露したとの記事です。
少し長いですが、その記事を引用します。
”愚庵は安政元年に福島県いわき市で生まれた。明治10年代には清水次郎長のもとに寄留。その後出家して子規と親交を結んだ。明治30年、愚庵からカキをもらった子規は、カキにちなんだ句を五句詠んで礼状に添えた。
句碑はそのうちの一句「柿熟す愚庵に猿も弟子もなし」を選出し、子規直筆の書をケヤキの板に転写して彫った。子規に贈ったカキが実った木の"二世”もいわき市在住の愚庵研究家柳内守一さんから一本譲り受け、句碑の隣に移植した。・・・”
ご存知の様に、愚庵こと天田五郎は山岡鉄舟との縁で一時次郎長の養子になって次郎長の世話になるのですが、明治17年全国一斉の博徒検挙にあって次郎長が獄につながれた折、次郎長の身の潔白を明かすために”東海遊侠伝・一名次郎長物語”を書きました。これが次郎長を世に知らせるもとになったわけですが、次郎長のもとを去って京にのぼり、そこで多くの友人知人を得て、正岡子規もその一人で、愚庵は子規の和歌革新に大きな影響を与えたと言われております。
今年10月、いわき市文化センターで”天田愚庵、その生涯展”が開かれ、その折私ども所蔵の愚庵の書”水無月に富士にのぼる歌”をお見せしたご縁で、天田愚庵没後100周年記念事業実行委員会が発行された柳内守一さん著”愚庵物語”を頂き拝読させて頂きました。愚庵のこと、とても判りやすく、又愚庵がいかに多くの人と交友があり、影響を与えたことを知り、私どもの住む清水が愚庵との縁深きことを喜び読ませていただきました。
明治30年桂湖村にたくした”松茸と書き15個”への礼状に書かれた内の一句がこの碑ですが、その時のやり取りが詳しく書かれております。必見必読の価値あります。
ちなみに、その時の三首と、その際の愚庵の歌一つを。
 まさをかは まさきくてあるか かきのみの あまきともいはず しぶきともいはず

 御仏に供へあまりの柿十五
 柿熟す愚庵に猿も弟子もなし
 釣鐘といふ柿の名もをかしく聞捨がたくて つりかねの蔕のところが渋かりき



水無月に富士にのぼる歌

父耕作が生前よく言ってました、佐々木信綱先生が愚庵の万葉調のこれを見て激賞されたとか(信綱先生が本当にご覧になったのか私自身、確認しておりません)。
 ”水無月二十日より二日不尽の高嶺にのぼりてよめるうた 天田愚庵
なまよみの かひの國 うちよする するがの國と ふた國をかけて たふときふじがねにのぼりてみてば 玉久しげ はこねの山も あしがらの やまをもやまと みえわかぬ それをおもへば とりが啼 あづまの空の うちひさす 都はいづらと あまのはら ふりさけみれば はろばろに さだかならねど すみだ河 ほそぬのしくと おもへらく 我ふるさとを 草まくら たびねながらに みることの そのうれしさよ そのたのしさよ
 ふじがねに のぼりて四方の 國みるも まづふるさとの 空をたづねて”


クリスマスの時期になりました。最近、家庭で電飾されるのが見られます。
私どもの近くの、由比に凄いのがあると聞いて先日見せてもらいに行ってきました。大勢の見物の方々が来て、とても賑わっていました。その豪華さはちょっとしたものでした。




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