清水興津にありました旅館”水口屋”は、かって”歴史の宿”として世界に紹介され一躍有名になりました。
この興津には、さまざまな名士が滞在され,”水口屋”はその拠点でありました。残念ながら時の流れに逆らえずでしょうか、廃業されてしまいましたが、清水の鈴与さんが、全国的には”清水エスパルス”の中心的オーナー企業と言えばお判りかと存じますが、その廃業を惜しまれ、研修センターとして、又フェルケール博物館水口屋分館としてそのかなりを保存してくださいました。
9月19日は、”糸瓜忌” 正岡子規の命日です。子規は 興津を自分の墳墓の地と思ったことがあるほど,この興津にあこがれておりました。これは周囲の反対によって実現しませんでした。(この事情については”春星連載中の中川みえ氏による総説 正岡子規の新派俳壇結成史”に詳しく記述されております。http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Kouen/3428/shiki0.htm#shiki6
以前、触れたかと思いますが、一時次郎長の養子となり、次郎長を海道一の大親分にするキッカケを作った 天田五郎こと愚庵とは、大変な親交があり、子規をして新しい短歌の世界に目をむけさせたのですが、愚庵を顕彰されようとされている方々(愚庵と子規を語り継ぐ会)、平成14年 子規100年の忌日に、正岡子規の句碑を興津の公園に建立しました。
それから、3周年のこの日、9月19日、”正岡子規句碑建立3周年と愚庵と子規を語り継ぐ会の集い”が、この”水口屋”でありました。
私も、嬉しく喜んで参加させていただきました。皆さんよく研究されておられ、未熟な私にはすごい勉強になりました。
静岡市の文化財保護審議会委員の杉山満さんが、”興津のリゾート化と文人”と題されてお話くださいましたが、そこで、温暖な気候、風光明媚な景観などの恵まれた自然環境、明治22年東海道線が開通、東京から6時間の距離になったこと、皇太子殿下が海水浴されたように、日本ではじめての絶景地の海水浴場などが縁と多くの名士がこの地に訪れ、住むようになったと言うのです。明治29年井上馨侯爵が別荘”長者荘”を作られ,急行が興津駅に止まるようになって(井上候の力で)、明治32年阿部正桓伯爵、中村秋香(あきか  国文学者で、 東京音楽学校の講師、宮内庁御歌所寄人。.. 「遠別離」 「漁業の歌」など作詞をされている。)が明治39年、川崎造船、川崎重工業の創始者の川崎正蔵男爵が明治40年、最後の元老で、水口屋とのかかわりの深い西園寺公望公爵は大正7年、伊藤博邦公爵が大正8年に別荘を作られました。幸田露伴、高山樗牛、正岡子規、伊藤左千夫、志賀直哉、有島生馬、姉崎嘲風、尾上柴舟、堀口大学、若山牧水、与謝野晶子等々、数え切れないほどです。
夏目漱石は興津にきて、丁度天皇陛下行幸時にかさなったためか、水口屋さんで粗末に扱われたと、手紙に書いているようです。
このようなことは、常葉大学の土屋研究室のホームページ”近代和風住宅を通した景勝地の形成に関する史的研究”に実に丁寧に考察報告されておりますので、是非是非ご覧下さい。(http://hinomi.rocket3.net/tsuchiyalabo/dr/indexdr.html)私ごときがえらそうに書いたら笑われてしまいます。
ただ、先日、与謝野晶子さんのことをお調べになってる方が、私どもホテルにお泊りになり、晶子の清水での足取りをたどられておりました。そのとき、"冬柏”の写しを頂きました。晶子の弟子菅沼宗四郎が、横浜税関清水支署長になって赴任したときの消息(昭和10年11月6日記)でした。晶子がこの頃きているのは、弟子に会いにきたのだろうと思います。この消息文には、赴任の歓迎会の宴席を、私ども玉川楼でおこなったこと,鈴木与平さんが歓迎の挨拶をされたことなどが報告されておりました。私どもにも少しかかわりあったのには、びっくりもし、ちょっとばかり嬉しくもありました。
興津って,歴史の宝庫で、思い出が沢山あるところなんですねー。
 この集いの最後に、子規の碑を見学しました。以下、その辺の写真を。



子規の碑を建ててある公園は、ちょうど清見寺の前、国道一号線から海岸に向かって100メートルほど下ったところにあります。
座漁荘見学者のための駐車場がある公園です。その入り口に石碑があって、皇太子殿下海水浴跡とよめます。




今回の参加された方々と、”昔興津の海岸に岩場があって、よく雲丹なぞみかけたねー。そう言えば岩場に大きな石碑があったねー。あれ、なんだったけー。海水浴の碑じゃないっけかー。じゃー、これだよ。ここへ移したのかなー。いやー、この場所が岩場だよ。”もう、50年も前のこと話していると、興津もすごく変わっているのを、改めて実感。




芝生一面の公園の道路沿いの、一角に野菊が、やさしく植えられて碑があります。



今回集った方々と。



月の秋 興津の借家 尋ねけり



この碑についての説明文が”正岡子規と興津”と題して右手にあります。
”明治33年、病床にあった正岡子規は温暖な地興津への移居を思い立ちました。叔父大原恒徳宛の書簡に「興津が墳墓の地」とあります。
移転先として松川医院(現在の興津本町河村医院)の病室を、弟子の加藤雪腸や河東碧梧桐らによって借りる手筈までつけましたが、周囲の反対などから興津行きは遂に断念しなければなりませんでした。
2年後の明治35年(1902)9月19日、子規は36才の短い生涯を終えます。
果されることのなかった子規の想いを偲んで野菊の花壇を設けるとともに病床にて詠める一句を碑に刻してここに建てることとしました。
(月の秋 興津の借家 尋ねけり)  
                    平成14年    子規100年の忌日に
                               正岡子規を偲ぶ集い
                    子規の句     良知文苑書・石垣松黄刻
                    野菊の花壇    興津花の会設営       ”とあります。




野菊はちらほら咲いて。


子規は元気のとき、興津に菊を見に来ているようです。子規は、芭蕉より蕪村が好きのようで、もしかすると蕪村の”白菊の 一もと寒し 清見寺”を知って来たのではないでしょうか。白菊、寒し、清見寺と 清く潔い情趣によって統一されている(日本古典文学大系)この句が、きっと子規の心情にぴったりしたに違いありません?
”子規と野菊  正岡子規は野菊が好きでした。興津行きをすすめた伊藤左千夫は鉢植の野菊を持って病床を見舞っています。虚子の名作「柿二つ」にも、子規を興津に駆り立てたのは「野菊」であったと描かれています。この花壇は、興津周辺の野菊と子規の故郷松山で採集された野菊によってつくりました。 平成14年9月19日 興津花の会”と書かれていました。

学生時代を、懐かしく思い出す、すばらしい一日でした。
静高時代の先生、森伊佐夫先生はたしか窪田空穂(様って?、先生って申し上げた方がいいのかなー)のお弟子さんの筈。そして窪田空穂先生が、清水に来られて確か、我が家?(といっても私の実家)の庭に来られたのを遠くで拝顔させていただいた(もちろん、子供の頃であったし、お話したわけではありません)ことを。森先生の源氏物語の大人の解釈にびっくりしたことを。大学に入ったばかりのとき、笠知衆の”野菊のごとき君なりき”を下北沢の映画館で見て涙が止まらなかったこと、周りのお客さんを見たら皆泣いていたので、私もなにか安心して泣いて映画を見たことを。いろいろ思い出していました。
そう言えば、武者小路実篤と武田泰淳の講演を浜田のPL教団だったけか、そこに聞きに行った時、武者小路実篤が子供をおぶって入ってきたのにびっくりしたのを、思い出しました。。。。。。思い出が止め処もなくなりそうー。

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