又暫くの間、こぼれ話を中断してしまったのは、私の怠慢もあったけれど、正直いって私の勉強不足で、書けなかったわけで、悩んでいました。
しかし、勇気を振起して又書きき始めます。
私ども玉川楼の中庭の、かって熱海の市長さんから頂いた寒桜 熱海桜も咲き終わり、やわらかい葉が出てくる頃になると、私の外に出たがる癖が出て、清水の町にこぼれ話の種を探し回る訳です。
しかし、清水の町を歩くよりも、今年は京都に桜を見に行ったり、愛知博に行くなどに忙しかった私でした。愛知博ではトヨタ館やアメリカ館など見て廻って驚いたり、感動したり、遂には疲れ果てて会場内のマッサージ?店に飛び込んで元気を取り戻した一日もありました。
そして、そしてです。いつの間にか緑が濃くなってきてもう初夏なんでしょうか。ようやく怠け癖におさらばしようと、清水のことを書きたくなって、しかし漫然とパソコンに向かったところです。
ふと気がつくと、梶原一族の終焉にゆかりのある高源寺のことも、興津が保養地、別荘地として利用し有名にした井上馨侯の長者荘のことも、一度も描いたことがないのに気がつきました。
そこで、今回はこの二つのことを書いてみようかと思います。
清水は、東から京までの道、東海道が通っているのは、鎌倉以前から今日まで同じです。ただ、始めは山の麓、海岸を通りました。古い東海道は、今では北街道と言って、東から海岸線を通って来たのが、現在秋葉山と言ってる、古くはまつじやまと言ったらしいところから(本当は横砂の方の山のようですが)、(後に辻と言う)、山の麓を通リました。
現在、私たちが住んでいる清水の市街地は、今では想像も出来ませんが鎌倉平安の時代は、湿地帯だったのでしょうか、この辺は東海道の中でも難所中の難所だったようです。
鎌倉から追われて自分たちの領地西国に戻ろうとした梶原一族は、当時徳宗領であったこの清水で、土豪の吉川一族によって打たれてしまうわけです。
清水インターチェンジをおりて、清水市街、八坂町から北街道に入ってしばらく行くと高源寺が右手にあります。
皇太子様がお出でになったことを記した立て札が入り口にあり、山門を潜ると左手奥に梶原一族終焉の碑があります。



大寺院ではありませんが、整ったお寺です。



山門の右手は駐車場になってますが
そこに皇太子様がお成りになったことが記されています



山門をくぐり本堂に向かって左手に碑があります。
メタセコイヤの木が植えられています。

”飯田村高橋、臨済宗高源寺ニアリ、是レ梶原景茂以下家ノ子郎等ヲ葬ル所カ、傳云、景茂以下家ノ子郎等ハ、大内村、鳥坂村、高橋村ノ所々ニシテ討タレシヲ、高橋村ノ高徳山高源寺二集メ葬ル、今ニ彼等ノ堂後ニ碑アリ、表ニ不盡乾坤燈外燈籠没ノ九字ヲ刻メリ、是梶原一類の骸ヲ埋ル所ナリト”と
記されています。北街道の歴史に思いを馳せながら歩く時、ここ高源寺によってこの碑を見ると感慨深い思いになるに違いありません。
鎌倉期の私たちの住む清水は、東海道でも難所中の難所だった様で、今では考えられないほどの沼地だらけと想像されます。おそらく梶原一行もこの地さへ無事にきりぬけられれば、自分の領地に戻れると思ってたに違いないと思うと、一行の無念さを悼むのです。
高源寺は、北街道沿いにあるわけですが、当時はこの通りが東海道でしたから、ここから西に行きますと大内、鳥坂と梶原一行が戦い打たれたところ、ゆかりの土地に至りますので、一度歩かれることをお勧めしたいものです。


上記右の碑が高源寺にあるものです。この図は江戸時代の資料" 駿国雑志”に載っているものです。参考のために、"駿国雑志”の中にある関連記事をここに写させていただきます。
「梶原一類墓」庵原郡高橋村高徳山高源寺禅 門前に在り。此墓は景時の子、三郎兵衛景茂、六郎景国、七郎景宗、八郎景則、九郎景連、及伴類共の墓也。正治二年正月廿日、相州一の宮の所領を出て、潜に上洛、当国の御家人と戦て、狐か崎に討死す。(現在の狐か崎とちがいますので注意)
「梶原墓」庵原郡牛か谷村梶原山龍泉寺境内、梶原絶頂鬢洗水の上に在り。是景時、並嫡子源太郎左衛門尉景季、同弟平治左衛門尉景高の墳也。此墓器財等を添埋む。伝云。中頃強欲の民、此墓を掘崩せり。景時は鎌倉無双の大名にして、一類一時に身を亡すのみならず、墓所迄発かるゝこと、衆人を讒舌せし酬、一家に至るなるへし。庵原郡巡村記云。景時主従は、当所高橋、或は所々にて討れたるならん。当山に討死したるは、上に云父子三人にして、余は高橋にて討死し、骸は彼地に合葬し、墓印えお営し成るへし。当山堂の傍に二墳あり、惟ふに此地に亡ひし兄弟の墓なるへし。一書云。梶原か死後を、長尾将監と云人吊ひし由。是によれは此堂も、長尾氏開基せし者なるへし。系図を伺ふに、梶原長尾鎌倉一系也。将監は梶原身よりの人にして、追善に吊しか。又当所乾一里計に長尾と云山里あり。爰に塔婆山と云山あり、山間を隔て、此山と梶原脊崗と直に向ひ合へり。若くは此塔婆山に仏木を建て、峯越に供養香花の追善せし者か。将監は長尾の里に住ける人か。其由をしらず。(以上巻三より)


次回は静岡市埋蔵文化財センターについて書こうと思います。



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